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ビジュアルスタイルの創造

プロデューサーのサイモン・フラーとプレゼンター兼プロデューサーのマイケル・ケインは、大スクリーンで1960年代を可能な限りリアルに見せたいと考えていた。そのため、ディテールの再現に膨大な時間が費やされた。

「歴史的事件が信じられないほどたくさん起きた10年間だが、本作では、ひとつの事柄に90秒以上かけていないので、90分で非常に多くのことが語られている。各シーンは、数週間がかりのリサーチと熟考のたまものだ」と編集のベン・ヒルトンは語る。

フラーとケインは、1960年代に初めて使われた映像技術も反映させたがっていた。監督のデイヴィッド・バッティは言う。「映像にはノイズや傷、光、それに何だかわからないものがたくさん入っていたが、あえてきれいにしなかった。これも重要なディテールだから」

ヒルトンは、ビートルズが飛行機から降りる映像を何本も見た結果、別のビジュアルスタイルにたどり着いたという。「大部分の映像はまったく同じ方法で撮られたものだと気づいた。カメラマンたちは前にいる人々が映らないように、高い三脚に載せたカメラで、手を振りながら笑顔で降りてくる彼らを撮ったんだ。そこで私は何日もかけて、飛行機から降りる彼らを後ろから撮った映像を探した。それは手持ちカメラでかなり接近してビートルズの視点で撮った映像で、彼らはカメラマンと話をしている。私たちはみんなが百万回も見たニュース映像は使いたくなかった。動きのある、一瞬の決定的な映像を探したんだ」

現在のケインの映像については、バッティは彼の有名な出演作『ミニミニ大作戦』からインスピレーションを得た。オリジナルのアストンマーティンDB4を見つけ、スコットランドからロンドンに運び、ケインが運転する姿を昼夜にわたり撮影した。「信号で止まるたびに大勢の人が集まり、写真を撮っていた。Twitter上では『ミニミニ大作戦』のリメイクだろうという推測で盛り上がっていた」とバッティは微笑む。

デイヴィッド・ベイリーのスタジオを再訪し、象徴的なモノクロのポートレートの前を通り過ぎるケイン、ナイトクラブ「アドリブ」に敬意を表して再現した旧式のエレベーター、テムズ川の上のケインなどが撮影された。本作は60年代を従来とは異なる視点で見せる。

「私たちは、マイケルが1960年代に実際にやったことを反映させようと、小さなディテールを探し求めていた」とバッティ。また技術的な発達も反映させたことについてヒルトンが説明する。「本作は60年代初頭のモノクロ、モノラルばかりの映像で始まるが、60年代末にはカラーでステレオになる。当時の音響・映像技術の発達過程を取り込んだんだ」

ミニスカートと音楽だけではない60年代を再現

本作の脚本の概要には、ふたつの目的が記されていた。まず、60年代ポップ・カルチャーの物語を、のちの世界にどのように影響を与えたかという観点から語ること。第二に、ドキュメンタリーの案内役マイケル・ケインと彼の経験に焦点を当てること。ケインらと同様、脚本家のディック・クレメントとイアン・ラ・フレネも本作に情熱を注いだ。

ラ・フレネが語る。「ミニスカートと素晴らしい曲の数々が生まれた時代というだけではなく、社会が激変し、あらゆる種類の作品が爆発的に生まれた時代でもある。音楽だけでなく、ファッション、アート、映画などのすべてが、政治、社会的変化、性的指向、ドラッグ、フェミニズムの混合の中にあった。驚くべき坩堝だ」

「私たちは3幕仕立てで行くことに決め、まずは編集室に座って必須映像を選ぶ作業をした」とクレメントは語る。たとえば、保守党国会議員サー・ジェラルド・デイヴィッド・ニューネス・ナバーロがカメラに向かって若者の堕落を語る映像。「過ぎ去ったものとの対比を示していて、素晴らしく皮肉で面白い」

必須映像を選んだ後、デイヴィッド・バッティ監督と彼のチームはそれをひとつにまとめて形を整え、脚本家コンビが映像に合わせてナレーションを書き直せるようにした。

それから彼らは、ケインとバッティがインタビューした映像を取捨選択した。クレメントが説明する。「デイヴィッド・バッティは時代の重要な証人たちへの素晴らしいインタビューのために忙しく働いていたし、マイケルもポール・マッカートニーやロジャー・ドールトリーらに次々とインタビューしていた。おかげで私たちは、彼らの見解を考慮しつつ脚本を書くことができた」

「マイケルが自分自身のことを語ってくれたことは、私たちにとって重要だった」とバッティは語る。「最初の映画の大役を獲得したのかをどのようにして教えてもらう必要があったんだ。なぜ彼は名前を変えなければならなかったのか。また、彼やビートルズや他のみんなは、有名になるためになぜロンドンに来なければならなかったのかを」

若い世代のために自分の世代をチューンナップ

人生においてずっと音楽に熱中してきたプロデューサーのサイモン・フラーは、本作のために、史上最も影響力のあるバンドによる最も影響力のある曲の数々を集めて究極のサウンドトラックを作りたいと考えていた。

デイヴィッド・バッティ監督は語る。「音楽に関するサイモンの経験と知識の豊富さは途方もない。そもそも、この映画への彼の関わり方は音楽を経由していた。彼は音楽を映画の前面に出し、音楽の背後で何が起きていたかという歴史の流れを理解できるようにしたがっていたんだ」

「サイモンは、音楽業界でおそらく最高の耳を持っている。そして、この映画を通して若い世代に60年代の音楽のすごさを伝えたがっていた」と音楽監督のターキン・ゴッチは語る。「サイモンは言った。『観客は素晴らしい音響システム付きの暗い部屋に座って映画を観るのだから、ヒット曲の数々を大きな音で流そう』と。プリティ・シングスではなくローリング・ストーンズ、サーチャーズではなくビートルズが欲しいと私に言ったんだ」

脚本家のディック・クレメントとイアン・ラ・フレネは、3つの重要な曲――ザ・キンクスの「デッド・エンド・ストリート」、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが書いたローリング・ストーンズの「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」、そしてザ・フーの「マイ・ジェネレーション」――に合わせて3幕の脚本を書いた。

「音楽がメチャクチャ素晴らしいのは、サイモンの膨大な知識のおかげよ」とプロデューサーのフォーラ・クローニン・オライリーは語る。

唯一、自分たちで決めたルールを破ったのは、エルヴィス・プレスリーを含めたことだ。彼は一度もロンドンに来たことがなかったが、60年代を通じて世界中のポップ・カルチャーに及ぼした彼の影響は否定できないからだ。

マイケル・ケインを監督するということ

デイヴィッド・バッティ監督にとってマイケル・ケインは憧れの存在だったという。「彼は私の大好きな映画の何本かに出演している。将来もこれを超えるものは絶対に作れない最高の英国ギャング映画『狙撃者』(71)や、おそらく英国最高の戦争映画の1本『ズール戦争』(64)、私が思うにボンド映画よりよくできている『国際諜報局』(65)などだ」

幸い、バッティは生い立ちのおかげで、スターに夢中になりすぎたり何も言えなくなったりすることはなかった。バッティの両親はビートルズ映画の監督リチャード・レスターと家族ぐるみの親しい友人で、両家はよく休暇をともにし、バッティは5歳のとき、レスターが『ジョン・レノンの僕の戦争』(67・未)を撮影中のスペインで休暇を過ごしたのだ。

バッティと家族は、伝説の人と一緒に自家用ジェットでロンドンに戻った。5歳なので飛行機に乗ることのほうに興奮していたが、バッティは世界で最も有名な人と握手したことを覚えている。

「レノンは『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』をスペイン滞在中に書き始め、また、常に自身の最高傑作と見なしていたようだ。その曲を私たちが本作のためにビートルズの代表曲として選んだのは、不思議な巡り合わせだ」とバッティは語る。

ケインを撮影するにあたっては、バッティは彼を温かくもてなそうと考えたという。「彼は監督する喜びを与えてくれる人だ。経験豊かで、世界中であらゆることをしてきたにもかかわらず、『何をしてほしい?』と訊いてくれる。そして驚くほど気前よく自分の時間を差し出してくれるんだ」

バッティはロンドン中で数え切れないくらいケインを撮影した。「BTタワーの最上部へ行かせたり、隙間風の入るエレベーターで何時間も昇り降りさせたり、凍えるほど寒い日にテムズ川でボートに乗せたりしたが、マイケルは一度も不平を言わなかった」とバッティ。そして、こう付け加える。「マイケルは決して私に、映画界の大物やハリウッド・スターと仕事をしていると感じさせなかった。彼はいつも『1960年代は人生最良の時代だった』と言い、みんなに1960年代を知ってもらいたがっている。だから、このプロジェクトに情熱を傾けたんだ」